寺伝によれば、室町時代(1336~1573)末期には堂宇が存在し、大坂の陣(1614~1615)の後に戦死者を弔うため、本願寺代8世門主蓮如上人の代に久宝寺法円(慈願寺6世)が建立した有力寺院である浄照坊の僧が、開基仏(絹本著色方便法身阿弥陀如来画像、1480年代作)とともにこの地へ来て寺基を拡充したと伝える。
当寺は17世紀後半に寺観を整えていったようで本願寺記録室には「寛文9(1669)年6月22日寺号許可」とあり、浄覚寺としての歴史が始まる。また、いずれも本願寺14世門主寂如上人の下附による延宝6(1678)年裏書の良如上人画像、太子画像、七高祖画像の3幅、貞享3(1686)年裏書の親鸞聖人画像を伝えている。その宛所は「超願寺門下河内国丹北郡吉冨村惣道場浄覚寺」とあり、四天王寺南側に位置する真宗寺院である超願寺を手次として下附を受けていることから、17世紀後半には超願寺と浄覚寺の間に本末関係があったことが想像できる。
その後約100年の歳月が流れ、門徒中の思いが一つとなり現在の本堂が建立される。本堂内陣欄間の裏書に「安永2(1773)願主 吉冨村平兵衛」とあるように、約250年もの間修復を重ねながら本堂を護持してこられ、寺号拝命より350年もの長きにわたり、寺族門徒一同が念仏の灯を守り続けてきたのである。
【浄覚寺真宗関係資料】
https://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009120.html
(大阪市HP)
浄覚寺は平野区長吉長原、字吉富に所在する本願寺派の真宗寺院である。旧石器時代から中世の複合遺跡である長原遺跡や、中世に永原大宮と称した志紀長吉神社の所在する、歴史的な由緒の深い地域に寺地(てらち)を置く。『東住吉区史』によれば、足利末期の建立で、大坂の陣の戦死者を弔うために本堂を拡充したと伝える。また、寺伝によれば、本願寺 8 世門主である蓮如の代からの有力寺院で、大坂市中の本町にあった浄照坊末であり、大坂の陣後に浄照坊の僧が開基仏とともにこの地へ来て、戦死者を弔うために開いた堂が前身という。
この開基仏と称される本尊が、方便法身阿弥陀如来画像である(右側の画像)。螺髪は大振りで、髪際の線は中央が大きく下がる。肉髻相は大きめで、幅広で量感のある面相は生き生きとした表情を示している。大衣、褊衫、裙を纏う。衣文の表現は通規のものだが、稜線の処理は的確であり、形式化の進展を感じさせない。衣部は截金によって文様が施される。大衣の田相部は卍繋ぎ文、条葉部には多弁の花文、大衣の裏には網目文、褊衫の表には麻の葉繋ぎ文、縁には波状文、褊衫の裏には斜格子文、裙には格子・斜格子組み合わせ文、裙の縁には亀甲繋ぎ文が施されている。文様は精緻であり、本願寺下付の画像本尊の截金文様としてはオーソドックスなものだが、裙の腹前に出る部分には特色がある。剥落はあるが、上下2段に分けられ、多弁の花文があらわされていると思われる。蓮台部分は剥落がひどく、彩色の様子についてはよくわからない。蓮弁の数も不明である。
像の背面には円相と48本の放射光が描かれる。ほぼ1点から放射し、いわゆる身光ではない。円相の頭頂部後方と周縁部には金泥により彩色が施され、さらに外縁部には截金により太線が一条描かれる。放射光にも外縁部に各2条、中央部に太く1条の截金が施される。金泥彩色は、おそらく後補の手が入っていると思われる。絹地は粗目のものが用いられている。この画像の最大の特色は、画面に比して、阿弥陀如来像の本体が大きく、量感がある点である。円相上端から蓮台下までが64.8cm、阿弥陀如来像の肉髻の頂きから足先まで50.3cmである。
浄覚寺開基仏
絹本著色方便法身阿弥陀如来画像
先行研究によれば、阿弥陀如来像の仏身は、蓮如在世中に蓮如・順如・実如によって下付されたものは約50cm程度と大きく、蓮如没後の実如期になると、仏身が約40cm程度と小さくなる。他方で、文明15年(1483)以前の画像は、光明が仏身全体から放たれる、身光の形をとっていたことが指摘されている。生き生きとした面相部の表情や、巧みな衣文の処理を勘案し、この浄覚寺本の制作年代は、頭部のほぼ1点から光明が放射するような形式をとるようになった文明15年以降、それほど間をおかない時代、実如が継職する以前である1480年代ではないかと考えられる。蓮如下付の画像本尊としては、市内では長享3年(1489)の裏書を持つ福島区本遇寺本が知られているが、それと同時期の年代の画像と考えられる。
残念ながら、現在はこの画像の裏書は伝来せず、宝暦8年(1758)の別幅に表具された裏書を納めた箱が残るのみである。しかし、画像の制作年代が蓮如期に遡ることを踏まえると、蓮如期に久宝寺法円が建立した浄照坊から、大坂の陣後にこの地にもたらされた本尊である、という寺伝も信憑性の高いものと考えられる。
良如上人
浄覚寺は17世紀後半に寺観を整えていったようで、延宝6年(1678)の裏書を同伴する良如画像・太子画像・七高祖画像と、貞享3年(1686)の裏書を同伴する親鸞画像を伝えている。いずれも本願寺派14世門主寂如の下付による。良如画像は、上下二段の格子目に菊花文を描いた高麗縁の上畳に、墨染の衣を着し、右斜めを向いて坐す良如を描く。右手をやや高く上げて両手で数珠を持する。賛は「弘誓強縁多生」以下四行を木版墨刷で記す。像主銘は「良如上人」と画面左中央に記す。宛所は「超願寺門下河内国丹北郡吉富村惣道場浄覚寺」となっている。太子・七高祖・親鸞画像も同様の宛所を記す。浄覚寺は、四天王寺の南側に位置する真宗寺院である超願寺を手次として下付を受けており、17世紀後半には、超願寺と浄覚寺の間に本末関係があったことが想定できる。平野の長吉地域には、他にも超願寺を手次とする免物を伝える寺院があり、超願寺がこの地域の寺院に力を有していたことが知れる。徳川幕府による寺請制度が確立していく時期に、浄覚寺が寺観を整えつつある過程で、浄照坊ではなく、超願寺との本末関係を確立していった様子がうかがえる。いずれも、戦国時代から江戸時代前期にかけての長吉地域の歴史を考えるうえで重要な歴史資料といえる。
【用語解説】
- 蓮如(れんにょ)
- 室町時代の浄土真宗の僧侶(1415-1499)。本願寺第8世。
本願寺中興の祖
- 螺髪(らほつ)
- 巻き毛状になった如来の髪
- 肉髻(にっけい)
- 如来の頭部の盛り上がり部分
- 褊衫(へんさん)
- 両袖を備えた上半身をおおう法衣。
下半身に裙子(くんす)をつける。転じて、僧衣
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